基調講演
『持続可能なまちづくり』〜サスティナブル・コミュニティとは〜
 
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講師/川村健一氏(NPOサスティナブル・コミュニティ研究所長)
1949年2月16日生まれ。1973年に京都大学工学部卒業、同年よりフジタ工業(株)(現(株) フジタ)に勤務。
1986年に技術アタッシェ(社長直属 技術開発、企画担当)として米国駐在。
1991年に米国フジタリサーチを設立し、1993年に同社社長に就任。(2000年6月退任)
2002年に(株)フジタを退社。
2002年現在は、NPOサスティナブル・コミュニティ研究所長
広島経済大学客員教授(サスティナビリティ・地域経済循環担当)
湘南工科大学非常勤講師(システム科学・先端技術入門担当)
中国総合研究センター客員研究員(ベンチャー、地域経済循環)
新航空輸送システム技術研究組合(NEATS)垂直離着陸機企画担当
米国TWINSUN社・ロックフィールド インターナショナル社・ホスフェクス社・DWS社・メディット総研・インターロビー社・デリース アジア/各社取締役
NPO信州まちづくり研究会副理事長・NPOサスティナブル コミュニティ総合研究所理事、全国共生すまいのネットワーク理事を兼任。
著書に『サスティナブル・コミュニティ』、共著他多数を持つ。
img司会
それでは基調講演に入ります。本日の講師は川村健一さんです。テーマは「持続可なまちづくり サスティナブルコミュニティとは」です。川村様、よろしくお願いいたします。

川村
こんにちは、川村でございます。まず最初に第7回になったと聞いております、「全国リサイクル商店街サミット」の開催おめでとうございます。数多くこの会が開かれて、年々大きくなっていること、これは皆様の素晴らしい努力だと思います。その一部として、逆にこういう場をいただき、私が話す機会を与えられたこと、大変光栄でございます。

私は先ほど立派な紹介をいただきましたけれども、思い起こしてみますと、ずっと探し物をしてきた気がいたします。会社に入ってアメリカに渡り、技術開発の研究をしたり、ロボットの講義を大学でしたり、あるいはサウジアラビアやヨーロッパで新しいプロジェクトにいろいろ関わった訳でございますけれど、本当に私がしていることが役に立っているのかな、本当に皆様の幸せに届いているのかな、疑問を持って活動をしてきた訳でございます。その過程で、私を大きく変えてくれたプロジェクト、あるいは仲間がございました。今日はそういうお話を皆様にご紹介したいと思っております。

大学で時々教えている訳ですけれども、大学の先生には、たくさん本を読んで、あるいは人のレポートを読んで、それを上手くお伝えになる方がたくさんいらっしゃいます。それも一つの教え方だろうと思います。紹介ということにおいては、大事なことだと思います。けれど私はビジネスの世界にいて、それとはもっと違った、私自身がぶつかって経験してきたこと、あるいは事実を今日は是非皆様にお話しようと思っております。

私のテーマは2つございます。私自身が今まで経験してきたプロジェクトを通して、私自身を皆様にご紹介しようと、それが一番の目的でございます。そして、その思いが皆様に理解、あるいは分かってもらうのではなくて、「お、そうだ、そうだ」と感じていただくと、それがあれば素晴らしいです。私はいろんなところで話をして、「分かった」と言われると、あぁ、この会議が終わればそれで最後だなと思います。しかし「おもしろかった」と心の感性で言って下さった方とは、ずっとお付き合いができます。それはたぶん、2つ目のテーマである、私自身を経験を通して皆様に紹介すると同時に、響き合う関係ができたからだと思うのです。そして今日は、私が今まで出会って響き合ってきた人たち、名もないところでがんばってきた人たちを、絵や写真でご紹介したいと思っております。ですからキーワードは、私が私の目で見て感じたことをご紹介する、そして、「分かった」でなくて結構です。「なんか感じた」「なんか良かった」と、どなたか一人でも思って帰っていただければ、私は大変幸せでございます。  

では、本論に入ります。私は今日はパワーポイントとビデオを使います。まずはパワーポイントでご覧いただきます。これは日本では見慣れない風景なんですけれども、私が今まで50数年生きてきた中で、一番大きく影響を受けたプロジェクト、これを是非皆様に紹介したいと思います。ここにクエートと書いてあります。そして下がラスアルザールと書いてあります。これはサウジアラビアのペルシャ湾の方。イランの人が言うとペルシャ湾ですが、サウジアラビアの人が言うとアラビア海、日本のほとんどの石油が来るところでございます。その辺りのすべてを緑にするというプロジェクトのことからお話させていただこうと思います。

次は、この写真、何だと思われますか?何か分かります?はい、油田?これはですね、畑です。半径が約1キロあります。正確に言うと直径が800メートルあります。サウジアラビアのペルシャ湾側、ここを緑にしようというプロジェクトを進めて、私は日本から出たのですが、他はアメリカ、スウェーデン、メキシコ、オランダ、サウジアラビアと、いくつかの国が集まった共同事業でございました。だいたいこの1つに研究所が50個位入る大きさです。

img次にそのプロジェクトを見てみましょう。これが元々の砂漠です。ここにアメリカのアリゾナ大学とメキシコが共同で作ったサリコルニアという種を植えました。これは通常の種とは少し違っています。次ぎの写真は、なんだ普通に水を撒いている所じゃないかと思われるかもしれませんが、これは海水です。サウジアラビアでは20年かけて、塩で育つ塩生植物と言うんですが、種を作って海水で育てたのです。しかもリノール酸が90%位ある、本当に植物油として品質の高い、先ほどご紹介がありました山形の紅花オイルに匹敵するような、世界最高水準の植物油が作れると、そういう種ができる植物をアリゾナ大学で開発して、ここで作ったんです。ちょうどこのプロジェクトは湾岸戦争の時だったんです。ペルシャ湾を越えて、まさにミサイルがぶつかり合う時期だったんです。アメリカの軍隊はデザートストーム、砂の嵐作戦ということで戦いましたが、私ども5カ国のエンジニアは、デザートブルーム、砂漠を緑にするというプロジェクトで、上のミサイルをもろともせずに日々努力したんです。それで、この海水を混ぜて畑を作って、2年半で600haができました。技術的に大成功だということで、私共はスウェーデンの国王から褒めていただき、世界の学会から褒めていただき、画期的なプロジェクトだと、しかも戦争の中で俺たちはがんばったと、参加した技術者も胸を張って満足しました。そしてサウジアラビアの人たちに、「今度はあなた方の番だ、どうぞお使いください」と、この畑と人造的ですがコミュニティを作ってお渡ししました。そして意気揚々と帰りました。1年後、戻ってきたらきっとすばらしいコミュニティ、農村をベースにしたまちづくりができているだろうと確信していた私の目に映ったのは、何もない元の砂漠だったんです。何だったんだろうと、これが私に一番契機を与えてくれたプロジェクトでした。

その後、私はもう一つ新しいプロジェクトにチャレンジしました。そしてこれからお見せするのは、エリトリアというアフリカのエチオピアから30年の時間をかけて独立した国でのプロジェクトです。このビデオの中に、私が皆様に、まずお伝えしたいメッセージが入っております。出来上がったのは丁度2002年です。これは1999年に私共とアメリカのメンバーとエリトリアがパートナーシップを組んで出発したプロジェクトです。このプロジェクトで、戦場で荒れ果てたこの砂漠がどういう風に変わっていったか、そして緑の野のどういうものがエリトリアの人たちに与えたか、サウジの失敗は何だったんだろう、その姿を見ていただきたいと思います。

img エチオピアから独立するために、エリトリアの人たちは30年くらいずっと戦ってきた訳です。マサワというのは、エリトリアの人です。このエリトリアの地に、サウジと同じようなプロジェクトがスタートし、どこが違ったんだろうか。ここは同じです。砂漠に水路を掘って、海水を入れていったと。ここは違いますね、海水は海老を育てる。海老の養殖を組み合わせたんですね。もちろん海水で魚も育ちます。マングローブが育ちます。先ほど言いました、塩生植物は世界に1000種類位ございます。マングローブもその一つです。これはサウジと同じ、塩水を使った農場です。海水で新しい沼地ができて、新しい湿地でいろんな生き物が育つようになるんだと、これも先ほどの農地にはなかったです。今度は海水できれいな湿地ができて、世界中の人たちが集まってくる。このエコツアーも先ほどは考えなかった。彼はメキシコから、海老の養殖のために来た人です。緊張しているんですね(笑)。これがサリフォルニアでできた農場ですね。これがアスパラガスのような一年生の草本なんですけど、これがリノール酸90%の紅花オイルに匹敵する油を作る植物です。もちろん食べられますけれども、植物油ができる。それを絞った後のカスは、建物の壁などに使います。まさにリサイクルでございます。もちろん緑になったところが、世界中の炭酸ガスを処理する工場になるんだと。いろんな意味で、ここだけで世界に貢献できるんだと。これは一つひとつがシュリンプの養殖の池です。これはサウジアラビアではできなかった。ここでは沼地ができて魚が育ち、動物が来るきれいな湿地帯ができた。全体で900ha位です。Our hopes growing 。

このプロジェクトを作る中で、私たち技術進駐軍ではなく、住んでいる人たちの夢が一つずつ育っていったんです。30年の荒れた戦地に、まさに稲に近い土地ができた。一つ一つ作る植物が、毎年毎年大きくなって、そして森が育っていく。そしてエリトリアのタンクが、荒れた戦場が一つずつきれいになっていく。1999年にスタートしたものですから、丁度2年後ですね。サウジアラビアは砂漠に戻っていったんですけれど、700人ものエリトリアの人たちが職を得て働き、日々の糧を得ている。10トン近く、こういう海老の養殖もできて海外に行くと。海老の養殖で出た排泄物は汚い訳ですけれども、それをリサイクルでサリコルニアの畑に撒くと、ますます栄養のいいもので、サリコルニアが育って水も循環していく。そして最初にプロジェクトをした我々の会社もリサイクルを受けて、全部エリトリアの会社に変わっていく。自分達の森がいろんな人たちに褒めていただき、ますます自分たちを活気づけていく。元気になっていく。新しいマングローブの森、新しい農場、新しい海老の養殖。そういうものが、いろんな意味で、エリトリアの人たちの心に、あるいは財政に貢献して回っていると。彼らが自分たちの森を作り、育っていくことが、世界で増える炭酸ガスの再処理工場としても役立っている。その気持ちを持って立ち直っていった。エリトリアの人たちは、名もないけれど自分たちの努力を、ほかのアフリカの国々、ほかの発展途上の国々に、海の利用の仕方、自分たちの関わり方を伝えていくような人たちになっていった訳でございます。

ではパワーポイントです。先ほどのサウジアラビアの農場とエリトリアと何が違ったんだろうかと。ご理解いただけたと思います。私たちがこれを作った湾岸戦争の1999年の頃、技術開発がすべての幸せを引っ張ってくるものだと、そして技術開発というのは完成したものをポンッと渡せばいいんだと思い、完成した農場をサウジの人たちへ「はい、どうぞ。私たちが作ってあげました」と、「後はこれをあなた達が使って自分たちの国に役立ててください、きっとあなた達は幸せになりますよ」と渡した訳です。彼らにとってみれば、「それがどうしたんだ」と、誰一人この農場に愛着を持つことなく、誰一人手をかけることなく、元の砂漠に戻っていった。エリトリアは何が違ったか。エリトリアは最初から自分たちの手で、私たちを使いながら、緑の畑を、海老の養殖場を、すばらしい景色の沼地を作っていきました。自分たちのものとして、これからも作り続けていく訳です。私が一番教えられたのは、日本でもどこでそうですけれど、幸せも豊かさも電化製品をポンッと渡すように、完成品を渡したらおしまい。技術とは命を与えて育てていくもので、私が技術者として先端を極めるよりも、もっと幸せを求めるものは違うんだということです。エリトリアはあれだけの畑ができて、豊かな観光資源もでき、人々が来るようになった時、最後に彼らが言ったのは、「Thank you Good-bye」。「ありがとう、もう十分です。後は私たちがやります。これは私たちのものです」でした(笑)。技術とはこういうものかもしれないな、開発とはこうあるべきだなと、私は強く思った訳でございます。

img それを身近な例でお見せします。このスライド、コンクリートの水路ですね。これをどこで撮ったかと申し上げますと、これは日本でも見られますが、アメリカにある私のオフィスの裏で撮ったものです。水を流すだけの水路。当時、私共が作ったのは、メンテナンスフリーで水を流せばいいという水路でした。これは住宅街の真ん中にあるんです。しかもこの水路は水を流すだけですから、土木のエンジニアが設計したんでしょう。住宅街の真ん中にありながら、ここにフェンスがあって、町の中からは阻害されている。こういう水路が世界中に作られました。ところが完成品をポンッと渡す、水を流すだけの水路は水路じゃない、という動きが出てきたんです。

次の水路見てください。これも事務所の近くにある水路です。どこが違うんだろうか。まず一つ。同じ水を流す水路だけれども、単に水を流す水路じゃない。人も遊ぶ、動物も憩う、しかも四季折々の花がある。この水路はどこの水路かすぐ分かる。決して日本の水路ではない。これはカリフォルニアの私の事務所の裏のどこどこの水路であると。一つの目的で、どこでも同じ設計で、メンテナンスフリーで、水を流せばいいという人工物をたくさん作ってきて、それでいいと思っていた時代。それが冒頭でお話した技術の時代だったと思います。

しかし皆さんも一所懸命に商店街でがんばっていらっしゃるように、自分たちの街の、自分たちの水路として、いろんな人が関わり合っていくような水路が現れてきた。最初の水路は建設会社の人が作った単なる水路ですね。ところが次の水路は建設の人、植物の人、動物の人も入ったであろう水路です。もっと言うと、水棲学の人、ランドスケープの人、いろんな人が集まった。専門家に任せて作る時代から、いろんな人が集まって、いろんな目的で使える、人が遊べる、人と親しめる水路ができる時代になった。これが今日のテーマであるサスティナブルなコミュニティへの道の一つだと思っています。手を掛ける。手を入れて育てていく。サスティナブルというのは持続するという説明が先ほどありましたけれども、絶え間なく育てていく、ずっと育てていく、そういう風なことを意味する言葉です。ですから先ほどのような人工物は邪魔ものであり、誰も見ない、誰も手を入れたりしない、けれどこちらは日々手を入れなければならない、水が溢れれば掃除をしなければならない、木も時々切ってあげなければならない、しかしみんなが遊べるし、自分たちのものとして作り上げられる水路です。こういうものをこれからは作っていかなければならないんじゃないか思います。

今日の一番のテーマは、「この水路は誰が手を入れているんだろう」。皆さんは分からないですよね。でも名前もない、誰も褒めない、しかし自分たちの物として、ここに住んでいる人たちがたくさんの手を入れて、世界中に作っている時代になってきています。そうした動きの延長線上に、きっと新しい豊かさが出てくる訳だし、味気のない水路に命を与えるのです。これから紹介する世界中の街に出ております。是非見ていただきたいと思います。絶え間なく、手を入れていかなければならない、生き物のような街は、どういう人たちが作っているのか。

img次のスライドです。これは1920年代のデンバーです。電車があり、車もあり、人もあり、なんかのんびりとして、こういう街だとゆっくり歩ける。電車で移動もできる。このデンバーの街がどういう風に変わっていったか。次のスライドは1960年代のデンバーです。先ほどのゆったりとしたデンバーと同じ通りなんですよ。まず自動車工業が勃発して広くなって、政略的に電車を撤廃して、車がたくさん走るようになった。こういう風にちょっと見るだけでも、ゆっくりできない、ほっとできない、車に占領されたような街になった訳です。このおかげで周辺の商店街の人たちは、ほとんど人も来ない、安全じゃない、犯罪も多い街になって、どうしようかと話をして、5年かけて作り上げた同じ通りが次です。

何が大事なんだろうか。商店街の人たちが言った言葉は「私たちのまちだ」と。「私たちの街は、20年代はみんなゆっくりして、出会っていた。いつも集まる場所だった。そういう街をもう一度作りたいんだ」という中で出てきたのが、20年代とは違うけれども、ゆったりとしている街です。今日の説明にもありました、出会える、面白いことができる、ほっとする、そういう風に変わった訳です。ところが電車を使わず何をしたかと言うと、ここにバスがありますけれど、詳しい方もいらっしゃるかと思いますが、トランジットモールというやり方で、水平のエスカレーターと呼ばれています。手を上げると止まってくれます。大体30秒から1分ピッチでこのバスが動いています。だから疲れると手を上げて、このバスで移動する。年寄りもいろんな方も出てくる街にしていったのが、デンバーの19番街の商店街の人たちです。これをする時にいくつかの努力をした訳です。それは皆様と同じ努力だったと思うんですけれども、たった一つ違ったのが新しい税制度を作ったことです。TIFというんですが、ちょっとした智恵です。こういう風に人が集まって、街の価値が上がってくると、固定資産税も上がってくる。その部分を街のメンテナンスに使おうと。街は一回きれいに作り上げたらおしまいじゃなくて、先ほどのサウジアラビアと同じで、ずっと手を入らなければならない。水路のようなメンテナンスフリーはあり得ないんですね。手を入れていくための費用に、賑わいで上がった固定資産税を回すとなったんです。ここはがんばれば、ますます税金が高くなって、収入が上がってきれいにしていけると。ちょっとした税金の使い方、アイデアで、リサイクルで、楽しめる街に変わっていく。

img 次です。こういう風な新しい街。誰が作ったのか、顔は分からないんだけれども、1920年代に暮らしていた人たちが、少しずつ進めていった街がいくつかあります。これはポートランドの1960年代です。これも街の真ん中です。未曾有の不景気に陥った時に、当時の市長は道路局と経済局に、どうしたら経済効果が現れて、活性化になるかを尋ねた。道路局は「車線数がた足りないからです、もっと増やしましょう。交通量を増やして人が入ってくるようにしましょう」と言った。それが実行されそうになった時に、ちょっと待てよと言ったNPOの人がいた。それが『オレゴン100人の会』という団体です。車を増やしても人が通過するだけじゃないか。そうじゃないよ、もう一回考え直そう。街というのは手を入れなくちゃいけない。道路を増やして勝手に人が来るのを待って、経済が良くなるものではないんじゃないか。その話の中から彼らは新しい提案をしてきた。それは公園だったんです。通過交通は外に行かせよう。街の中心は人が憩うところにしよう。街の価値を高めていくんだと。街はいろんなものが集まる場所だと。道路の拡張を選択しようとした市長は、もちろん落ちちゃった。どういうことかというと、街を豊かにしようとしている人は、道路を公園に変えるだけじゃなくて、その前に市長を変えちゃったんです。それも一つのやり方ですね。これによって、通過交通の時代と違って、安全になって人が住むようになる。たくさんあった駐車場もいらない。そこを市民公園に変えていった。そしてポートランドはマックスというLRTを使って、外を通っていく車と中が繋げるように、パーク&アイランドという新しいまちづくりをしていった。そのために、ポートランドと周囲の20いくつの街が、新しい電車を入れるための協同組合を作った。全体で基金や制度を作って、共同でマックスという電車を使うようにしたと。20いくつの街の人たちも集まってきて、人と出会ったり、ゆったりした時間を過ごすようになった。このプロセスの一つひとつが自分たちのまちづくりであり、こういう形で広域連携、車を外すことによってできた公園も、全部人によってつながって、大きな豊かな街になっていきました。

img では次に、こちら側が人口増加、こちら側が人口増加を受け入れるための開発事業をどれだけしたかという資料ですが、これはシアトルという街で、2020年位までの間に、経済成長で38%位人口が増えるだろうということに対して、87%もの郊外の土地を切って開発をしちゃったんです。ところがポートランドは、今のようなことをしたものですから人気も出てきて、人口が77%増加すると。それを受け入れるために行ったのは、たった6%の市街地の開発だけ。緑を残し、外と街とを電車でつなげ、街を繁栄させていく。同時に汚すことのないまちづくりをしていった。『オレゴン100人の会』は、俺たちが作りたいのは道路じゃない、公園だという思いのもとに市長まで変えて、夢を実現していった。

img 私はソーシャルアントレーナーと言っていますが、こういう名もない人たちの中から、有名になった人もいました。ある普通のお母さんが市会議員になってまちづくりの中心人物になっちゃった。これはテネシー洲のチャタヌーガという街なんですけれども、世界の国連が表彰した、世界で最も住み良い街になっちゃった。しかもゼロエミッションの街。その女性をご紹介したいと思います。ビデオをご覧ください。チャタヌーガの市会議員は基本的に無給です。アメリカのかなりの土地がそうで、必要な経費があれば皆さんでお支払いするんです。ここは15万人の街です。このインディアナポリスの視察を計画したのが、NPOの人たちなんですね。今ビデオの中で、いろんな人が住宅を持てる制度が出てきましたけれど、驚くなかれ、頭金500ドルです。500ドルを払うと自分の家が持てる制度を作っていったのです。これにもちょっとしたヒントがあります。例えば私たちが500ドルで家を買ったとします。10万ドルの家を買ったときに、お金を稼いで残りの99500ドルを返さなければならないと、日本なら誰しも思いますよね。ところが決してお金で返す必要がない、そういう制度がアメリカにはたくさんあります。そこに住む、住むことによって周囲の道路をきれいにする、枝を切る、街の掃除をする、そういう仕事をすることによって、街はそういう人を雇わなくていいので、雇用の形で減らしていくんですね。共同で街をきれいにしていくことによって、お金ではなく少しずつローンを返していくと。デンバーもそうでした。自分たちで自分たちの街をきれいにして、価値を上げることによって固定資産税が上がり、税収が上がり、またローンに戻ってくる。自分の街をきれいにすればするほどローンを返せる制度を、工業跡地など汚い場所で行ったんですね。チャタヌーガの街は60年代に工業で栄え、その工場が潰れて誰も行かない荒れた土地になりました。そこに今のような人たちが入っていって、きれいな街に作り変えていき、もっと素晴らしいのは、こちらにある工場地帯はたぶん世界で最初だと思いますが、エコチェーンという、ある工場が出したゴミが次の工場の資料や原材料になる、循環型の工場群にしていったんです。ちょっとした工夫で国連が褒めるようなまちにしていった。

img こうしたアイデアが、ヨーロッパにもあるんです。これはコペンハーゲンの例です。古い街ですが、みんなが行ってみたい街だと言います。この自転車、輪っかに色が付いていますね、こっちは付いていません。輪っかが付いている方は、ツーリストなど、コペンハーゲンを訪れた人が自由に借りられる自転車です。すぐ分かる。だから地元の人は、この自転車に乗っている人をみたら、「いらっしゃい」という。「どこに行かれますか?」「また来てくださいね」そんな話もできる。ただの輪っかを自転車に付けただけです。それだけで「私たちの街に来てくれてありがとう」と挨拶ができて、ツーリストたちはまたこの街に戻ってくるようになる。私たちが言う良い街というのは、きれいな街じゃなくて、顔が見える街。あの人が住んでいる街。あの時に、こういうことをしてもらった街。そんな印象が残る街が、良い街だと思います。

img 次の写真もコペンハーゲンです。古い街ですから、自転車や自動車が増えてきた時に、どうやってコントロールしていったらいいのか。たった一本線を引いただけです。私、今日山形に来て、同じアイデアを見ました。いつもこれを言うんです。人が歩き、自転車が通り、車が上手く循環する街。線を一本引いただけ。これは何だろう。意識ですね。自転車に乗っている人。ああ、車に関係なく、街の環境を考えている人だな、一本引くだけで、自転車も車も通れる。しかも街の中の公共交通として利用していく。山形との違いはなんだろうと、皆さん今日の宿題として考えてみてください。来てくれたお客様が、ここを通って行き来するんだという心配り、その意識がコペンハーゲンではこういう風に変えてきている訳でございます。街の中は車が入って来ないので、タクシーなども利用されます。これはトロリーバスなので、電車というかバスというか言い方は分かりませんが、喫茶店が車内にあるんです。我々は通常の電車やバスはA地点からB地点へ行くだけの物、移動するだけの物と思いますよね。ところが喫茶店を作ることによって移動を楽しめるようになる。時間が豊かな人はここでゆっくりする。時間のない人は普通に乗って降りていく。ツーリストも乗ってくる。そうするとここは移動する手段から人が集うサロンに変わる。ツーリストが地元の人に旅行の相談をして、「あそこに行った方がいいよ」なんて会話が生まれる。あるいは景色を見ながら会議ができる。こういう風に上にカップがある電車。通常の車に付けるだけでこんな風に変わっていくというアイデアです。

これは普通人が行かないところ。調整池とか高速道路の下とか、公園の資材置き場。こういう所をコペンハーゲンでは、いわゆる都市型の家ですからみんなアパートに住んでいる、でも緑が欲しい。畑が欲しい。そういうところにクライングガーデンという、ちょっとした庭付きの家を年間500円位で開放する。それによって普段は汚くて嫌だな思う場所が、きれな場所になっていく。自分たちで思い思いの庭を作っていく。

次の写真もヨーロッパのちょっとしたアイデアです。私はストックホルムに行きまして、友人にレストランに行こうと誘われました。それがここです。車椅子の方などもいて、最初入ってちょっと違う感じがするなと思ったんです。気が付きました。このレストランは老人ホームだったんです。日本では考えられないですね。老人ホームは普通の人はいかない。壁が高くて、その中で老人の方だけが生活している。ところがここはそうじゃない。食べ物が美味しくて、ワインもビールも飲めて、安くて、観光客もすぐ行ける。ここに住んでいる人たちは、私たちと話をする。いろんな事を聞かれて、最後は部屋に来ないかと言われて部屋も見に行きました。こんな風にコミュニケーションが生まれて、あそこの老人ホームにはあんな人がいたな、元気にしているかな、また会いたいな、あそこの料理も美味しかったなと思い出します。もう日本で考える老人ホームではないんですね。こういう仕掛けがちょっとずつできて、変わらずにある。

img 最後に一つの例を紹介します。これはノルウェイのベルゲンです。銅線で有名です。ところがもう一つ有名なものがあります。これは白夜です。夜中の3時なのに、こんなに明るいんですね。これは14世紀にできた教会で、古い建物です。これを1940年の頃に、荒れ果ててきたので壊してしまおうという話が出て、その時に、ある女子高校生が口火を切って、みんなに話をしたんです。これは私たちの街の歴史だし、私たちの街にずっとあるものだ。お父さんも、そのお父さんも、また私たちの子ども達も見るであろう、触れるであろう唯一のものだ。これを何とか残してくれ。これが少しずつ広まって、残そうとする動きが出てきた。そして幸いにも市議会を動かし、ブリッケンも教会を残した。残すということは、使わなければなりません。手を入れなければなりません。ここを商店街、観光地にしながら育てていった。ブリッケンは、ベルゲンの有効な観光資源になった。これだけだと当たり前の話なんです。ところがここはちょっと違っていた。彼らは高校生も含めて、このブリッケンを残す運動を世界中に発信して、いろんな仲間を作っていった。そしてプロセスごとにいろんな仲間が来た。その仲間と、人が集まり語り合う場所にした経験が、世界の大きな流れを作った。世界遺産と言われています。世界遺産の制度、残し方、選び方を決めたネットワークは、この女子高生の発言が今日のような全国のサミットになり、国連のサポートがついて機構になっていって、その高校生は世界遺産を残す局長にまでなっていったんです。残そうという知恵を全国へ発信し、逆に全国からもらい、また全国へ返していった時に、国連の動きに広がった。ブリッケンというのは、それを語る人がいて、そえを聞ける場所がある。ところがもう一つあった。ベルゲンの裏側にはフィヨルドという世界に冠たる観光資源があった。もちろん ブリッケンの運動の前から人は来ていたが、一回来たら人が来なくなっていた。しかしブリッケンの人たちと会ったり話したりする中で、人工物を残す、また自然の物を残す、使い続ける人たちに会って、いろんな動きが展開されるようになっていった例でございます。

私が今日皆様にお伝えしたかったのは、サスティナブルコミュニティ。持続するまちづくり。これは街があるから人が残るのではなくて、ちょっとした考えで、その人たちが集まり、努力をし、その街を育てていったと。育てていったものは水路であり、誰の目にも触れない物よりも、お父さんお母さんが手をかけた水路の方がいい。子ども達も手伝っていく。手を掛けることによって命を与える。我々は人工物を使い捨てにすればいいと思っていたけど、手を入れることで自分たちの物になっていく。交通も電車のカフェもそうだと思います。ミックストユーズと言います。みんなの共有財産をコモンズと言います。そういうものがあるところに、これからのサスティナブルがあるだろうと。私は一つ一つのちょっとした例をつなげながら、その動きが最後にご説明しました、女子高生の発言が世界遺産にまでなったように、ローカルな動きがグローバルな動きになっていくと、そういう時代が必ず来ると思います。そして皆さんが常に語れる場所は、自分の住んでいる街であり、自分の顔が映る商店街だと思います。ポートランドの電車もそう、車が通っていたデンバーを豊かな通りにしたのもそう、ちょっとしたことから、意識することから何かをしていくこと、そうすると意識が習慣になるんです。挨拶もするようになる。コペンハーゲンもそうですよ。輪っかが付いた人に「ハーイ、どっから来たの?」と言うわけですが、最初はぎこちなかった。意識して言ってた。しかし意識が知らないうちに習慣になる。みんな「ハーイ」「ハーイ」と言っている間に、それが文化になっちゃった。それでコペンハーゲンは人にやさしい街、行ってみたい街になった。そういう動きが世界中のいろんなところにあるんだと。誰一人有名ではないんですよ。例外的に女子高校生は世界遺産の局長になったり、チャタヌーガのお母さんは市会議員になったりしましたが、ほとんどの人、99,9%が名前もない人たちが、大きなまちづくりをしていったことを、今日はぜひ覚えておいていただきたいという事で終わりにしたいと思います。ご静聴ありがとうございました。